商号 | 村井醸造株式会社 |
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代表取締役 | 村井 重司 |
住所 | 茨城県桜川市真壁町72 |
連絡先 | 電話:0296-55-0005 FAX:0296-55-3797 |
関東で最初の近江商人
滋賀県日野町観光協会発行の「日野・その歴史と自然」によれば、「関東や奥州の各地へと上方商品を運ぶための中継地点として、江戸時代の初期である延宝年間(1673~1680)に常陸の国・真壁の町へ、行商人(近江商人)であった村井重助が醤油・味噌販売の出店を構えたのが日野商人における関東出店の最も古い記録である。」と記載されています。 初代村井重助が、この地で創業したのも、良質な米と水があったからだと云われています。 明治時代に建築された店舗に、脇蔵と大正時代に建築された石蔵と昭和初期の煙突は、登録文化財にも指定されているなど、建物にも歴史があります。 また、「村井重助」の名にも歴史があり、先代社長まで代々「村井重助」を名乗っていました。その名残として現在も、村井醸造入り口(事務所前)の右上に表札がかかっています。現在の当主「重司」は、12代目となります。
当醸造のお酒は、米と水の良さを最大限に生かした、日本酒本来の味を代々追求し続けてきた結果、現在のやや辛口のお酒にたどりつきました。
村井重司12代目社長の強いこだわりにより、口に含んだときにほのかに香る品のいい「含み香」を大切にしています。
最近では、栓を開けたときにすぐに香る「立ち香」が主流となっており、特に強めの香りが良い酒として持てはやされる傾向にあります。そのような最近の風潮のなかにあっても、やや辛口な少し間をおいてから香る「含み香」にこだわりをもって醸造を続けています。
村井醸造のお酒は酒造好適米とされる、山田錦を主に酒造米として使用しています。
山田錦は、大正12年(1923年)兵庫県立農事試験場において「山田穂(やまだほ)」を母に、「短稈渡舟(たんかんわたりぶね)」を父として人工交配を行い、新品種として生まれました。
粒は大粒で、心白部分のでんぷんの充実度が疎となっています。密より疎になっている方が、麹菌(こうじきん)が入りやすくなり、強い糖化力のある麹(こうじ)ができ、酒母(しゅぼ)、麹の糖化力がよりよい状態となります。また、雑味の原因となるたんぱく質や、脂肪の含有割合が低いことも特性の1つとなります。
山田錦が生まれて以来、幾多の品種が登場する中にあっても未だに山田錦の醸造特性にまさるものはなく、山田錦が今日でも王座に君臨しています。
筑波山では、数千年のときを越えて、今も山のあちこちに御神水や、万病に効くとされる冷水の「御海の水」などが、こんこんと湧き出ています。
当醸造では、筑波山系に降り注いだ雨水が、長い年月をかけて御影石にろ過され、おいしく透き通る様な伏流水(上下を不透水層にはさまれた透水層が河川と交わるとき透水層内に生じる流水のこと)となります。その伏流水を井戸より汲み上げて使用しています。山麓が迫っているので深く掘る必要はなく、浅い井戸でも、ろ過など余計なことをする必要もないほどの良質の水です。このおいしい井戸水を使用して醸造しているので癖のないおいしいお酒ができるのです。
当醸造の杜氏(とうじ)は、岩手県石鳥谷町の酒造組合から来ている南部杜氏の岩手県花巻市大迫町(おおはさままち)在住の「伊藤 政美」さんです。
南部杜氏とは、南部藩(南部氏の旧領地の名称であり、青森・岩手・秋田三県にまたがっています)出身の杜氏のことをいいます。
「杜氏」とは、酒造家で酒を酒造する男たちの長(おさ)であり、酒つくり職人のことです。
酒つくりは、冬場の副業として始まりました。酒づくり農家に生まれた南部杜氏は、やがて、その技術と真面目さを買われて、全国の酒蔵へ出稼ぎに行くようになりました。そして、先人が残してくれた伝統と技と職人としての誇りを持ち続けながら、現在では、日本全国約400社もの酒造会社に酒造りの長として、南部杜氏が活躍しています。
当醸造は、金賞の受賞歴が数回あり、杜氏の実力が証明されております。